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       花の散歩道

 

     花がもつ魅力についてのワンポイント情報♪♪



    花の散歩道 ⑧     《花の世界》 


[4] いけばなの文化

日本人の花を飾るという行為のなかには、からみあうふたつの意識、『生活のなかの花』と『表現としての花』がみられます。 ひとつめの『生活のなかの花』は、日常の花としてあくまで花は脇役の立場です。 あるときには仏に供える花として、室内を飾る花として、お客さまを迎える花として、などの役割をします。 花が脇役であれば主役は?――しいていえば私たちの生活でしょうか。 

 

もうひとつの意識『表現としての花』は、非日常のなかで花そのものから出発して花の美しさを最大限にひきだそうという意識です。 花による表現を徹底して追究していくと、花は一個のオブジェ――前衛いけばなもそのひとつ――になります。

 

 『生活のなかの花』

 いけばなの起源は、一般的には仏教の伝来とともに行われた「供花(くげ)」といわれています。 それは季節の花を花瓶(けびょう)に挿しただけのもので、花に形が与えられるようになるのは室町時代になってからです。 唐物とよばれる中国の絵画や器物が日本に渡来するようになると、それらを飾るための建築様式として書院造りがつくられます。 座敷には「床の間」がそなえつけられ、そこに飾られた器に挿す花の姿・形が工夫されるなかで「いけばな」が成立し、発展していきます。

 

 室町幕府の将軍足利氏をはじめとする権力者の邸宅や寺院には、床の間の前身といわれる押板や違棚などがもうけられ、三具足(みつぐぞく:花瓶、香炉、燭台)が飾られました。 その花瓶(けびょう)の花は、はじめは仏の供花でしたが、時を経て中心に松や檜などの常盤木(ときわぎ)が高くたてられ、季節の花木、草花を下部にそえるいけばなのスタイルへと展開していきました。

このような室町時代の書院に飾られたいけばなは「たてばな(立花)」とよばれ、武家文化が花ひらいた室町中期の東山時代の会所(行事がおこなわれる場所)には欠かせない座敷飾りとなります。 

 

正式な宴がひらかれる会所の座敷飾りであった「たてばな」に対し、より日常的な生活空間を飾るいけばなは「なげいれ花」とよばれました。 「なげいれ花」は、あたかも野原や水辺に咲く花をそのまま室内にうつすような感覚で花をいけます。 ここではあえて様式は要求せず、そのときの環境と花材によって花器や花形も自由に選択されました。

 こうした「なげいれ花」として最も代表的なのは、茶の湯の花でしょう。 安土桃山時代には、武家社会を中心に流行した茶の湯が千利休(1522~1591)によって大成されました。 その流れのなかで茶花(ちゃばな)がうまれます。 利休は茶の湯の心得のなかで「花は野にあるように」と説いて、装飾的な「たてばな」に対し対照的な茶花は茶席の床にいける花として、その後のいけばなにも大きな影響をもたらします。 

また「極限までそぎ落とすことによってその命、その空間は研ぎ澄まされていく」という考えをもとに、利休の美への探究心はどこまでも真っ直ぐでした。 その利休の美の考え方を如実にあらわしている逸話があります。

利休の庭の朝顔がじつに見事だときいた秀吉が、朝顔見物を所望したときのこと―― 約束の朝、利休邸にいってみると庭の朝顔は一輪も残らず摘まれていたのです。 不審に思って秀吉が茶室にはいると、薄暗い茶室のなかに真っ白い朝顔がたった一輪、息をのむような美しさを誇っていました――つまりこれは一輪の朝顔を極める表現をするための演出でした。 花は茶の湯という環境芸術ともいえる特異な生活文化のなかでひとつの小道具であったようです。

 

いけばなは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて大きな発展をとげます。 武士階級の大広間のある屋敷で豪華で大型のいけばなが要求されるなかで、池坊専栄、初代・二代専好によって様式として「立花(りっか)」が大成されます。(その後「立華」と名をあらためます)。 この時期にあいついで刊行された花伝書が大衆化に拍車をかけたということもあり、「立花(華)」は大阪や江戸の富裕な町人たちの間でも流行しました。

やがて全盛期をすぎた立華が創造性をうしない衰退していくのと並行して、1820年ごろに生花(せいか、しょうか)が登場します。 生花は、いけばなの三角形の骨格を「天地人」や「真行草」とよんで理論化されたものです。 立華にくらべて生花はいけやすい形態だったこともあって、人びとの間にひろく迎えいれられました。 そしてこの頃から多くの流派が誕生し、家元制度もできてきました。

 明治初期の文明開化の時代になると、維新による混乱でこの頃から約20年間、いけばな、茶の湯など伝統文化が衰退します。 しかし行き過ぎた欧化政策への反動として、政府がいけばなを良妻賢母の養成目的として、女学校の教育科目に取り入れたことにより復興の足がかりを得ます。 そしてそれまで男性中心だったいけばなの世界のなかに多くの女性が活躍する時代になっていきます。

また明治になって西洋の草花が栽培されるようになってくると、それをいけばなにとり入れた「盛花(もりばな)」が小原雲心(1861~1917)によって創始されました(左の写真)。 文明開化とともに人びとのライフスタイルもおおきく変化し、花を飾る場所も床の間にかぎらずさまざまなシチュエーションや空間が求められた時代のなかで、盛花は時代の変化をとらえた新しいいけばな様式として広く流行していきました。 さらに大正時代には、全く形にとらわれない「自由花」が提唱されています。 

 

このように、仏教伝来を起源とするいけばなは、生活のなかにあって長きにわたって受け継がれ、「たてばな」「なげいれ花」「立花(華)」「盛花」「自由花」と生活様式の変化にあわせて発展しながら今日にいたっています。 花は表現と装飾のかねあいのなかであくまで生活の脇役をつとめてきました。

 

近代の花人・西川一草亭(1878~1938)は、いけばなを生活の美と考え、私たちにとって生活が最も尊いものであると述べています。 こうした考えが日本の伝統的ないけばなの根底に流れているのでしょうか――いけばなは、日常の花・・・・『生活のなかの花』ともいえそうです

 

『表現としての花』

どのようにして人は花を飾るようになったのでしょう? 

花を飾ることで何を表現しようとしたのでしょう?

 古代の人びとは花を見て、あまりの美しさにそのなかに人間の力が及ばない霊力があると信じました。 そしてその力、エネルギーを得るために花を飾ったというのが、花を飾る原点にあったようです。

日本では、旧暦の3月(新暦では3月下旬から5月上旬)は疫病のはやる時期だったために、疫霊を鎮める祭りが平安時代から営まれました。 そのひとつが京都・今宮神社の“やすらい祭”です。 歌と踊りとともに桜や椿などで飾られた大きな花傘が巡行する祭りで平安時代から続きます。 鎮花祭(はなしずめまつり)ともよばれるように、花の霊力を鎮めて、祭りに参加した人びとは一年の無病息災を祈願しました。

仏に供える花も心理的には鎮花祭と同じといわれています。 私たちが日々祖先の位牌に花を供えるのは、花の霊力によって強められた祖先神の力を求めようとする発想であると考えられています。 

 

また、花は古代から豊穣の象徴でもあったことから、小正月(1月15日)になると人びとは山からとってきたミズキやヤナギなどの木に餅や団子をつけて、まるで花が咲いたように飾りました。 団子花、餅花、繭玉など地域によって呼び方は違っていますが、この一年が豊穣であるようにとの祈りがこめられていました。

 

 記録に残る『表現としての花』を時代にそってみてみます。

 

花をめでるという行為は、日本人が文学の史料を残すようになった当初から、さまざまな記録のなかにうかがえます。 たとえば、『万葉集』(7~8世紀の歌集)からは、大伴家持邸には、萩(はぎ)、百合(ゆり)、撫子(なでしこ)、藤(ふじ)、橘(たちばな)などの草の花、木の花が植えられていたようすがわかります。 『古今著聞集』(鎌倉時代、1254年に成立した説話集)には、花山院の三位中将邸は撫子(なでしこ)が四面の築地(ついじ:泥土をつき固めて作った塀)に植えられ、花の盛りには錦で山をおおったようであったと記されています。 


 また『枕草子』には、「勾欄のもとに、青き瓶(かめ)の大いなる据えて桜のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、勾欄のもとまでこぼれ咲きたるに………(欄干の下に大きな青い瓶を据えて、約1.5mの満開の桜の大枝をたくさんさしてあり、桜が欄干の外まで咲きこぼれている)」とあります。 桜は勾欄(欄干)の外までしだれたということですから、それはみごとな美しさであったでしょう。

 

また、1369年、鎌倉時代末に描かれた『春日権現験記絵巻』には、僧がいる居間の片隅に青磁の花瓶に入れられた紅葉の一枝がみられます。 

 

やがて日本人は花を自分の表現手段としても自由に用いるようになります。 ときには権力者の自己主張の場になることもありました。 

『太平記』に記されている南北朝時代の武将、佐々木道誉(ささきどうよ)の大原野の宴は、花見の概念をこえた奇想天外な花の表現を披露したことでよく知られています。 会場となった寺院の庭には巨大な桜の木が4本あり、満開の桜をまるで花瓶にいけたいけばなのように演出をしました。 花見に参加していた人びとは、さぞやその型破りな花の演出に驚き魅了されたことでしょう。 しかしこれは政治的なパフォーマンスでもあったようです。 政敵であった斯波高経(しばたかつね)が花見の宴をひらくことを知った佐々木道誉は、同じ日に豪華絢爛な花見の宴をひらき、斯波高経の花見の宴に人びとを参加させないようにして面子をつぶしたのです。

 自由な花の表現としての趣向のなかには、生きた花ばかりではなく、風流つくり物といわれるような造花の場合もありました。 たとえば、京都市の(志古淵神社)の花笠踊りに使う紙の造花で飾った灯籠や東北の餅花、さらには白木を削った削り花などもあります。 花そのものがオブジェとしてさまざまな造形物を生みだし、当時の人びとの目を驚かせていたようです。

 

京都市の最北部に位置する久多の志古淵神社の祭礼では、紙の造花で飾った灯籠を手にして太鼓にあわせて踊る花笠踊りがいまでも続けられ、中世の風流を思い起こさせています。

 

前述のように、室町時代に座敷飾りとして、『生活のなかの花』として発達したいけばなでしたが、従来の枠をこえた『表現としての花』のいけばなが披露されることもありました。

 

 時は安土桃山時代、1594年――池坊専好(初代)(1536~1621)は、前田利家邸の幅7.2メートルもある大床に奇想天外の巨大な花をいけたのです。 畳一枚ほどもある大きな平たい鉢に左右になびく松の大枝をいけると、背後の掛け軸に描かれた猿が、ちょうど松の枝の上で戯れているように見えたといいます。 床飾りの中心となる掛け軸を、松をおもしろく見せるための趣向へと、主客を逆転させてしまったところが人びとを魅了したのでした。

このような花の表現を追究する姿勢は、次代の池坊専好(二代)(1575~1658)において、さらに強められました。 不世出の天才・二代池坊専好は長いいけばなの歴史のなかに黄金時代を築きあげます。 立花(りっか)の伝統を継承しながら造形性を重視するという新しい視点をひらいて人気を博し、天皇から庶民にいたるまであらゆる階層をまきこむ立花ブームをつくりだしたのです。

 

江戸時代初期、寛永期(1624~1644)に活躍した後水尾天皇(1596~1680)と池坊専好(二代)は、立花をひとつのショー(禁中大立花会)にしてしまいます。 いまから約400年前に多くの公家、侍や町人も加わってのいけばな展をひらきました。 宮中に40人、50人という人びとが思い思いに花材と花器をもって集まり、競って花をいけるのです。 完成したところで、天皇以下全員の花を見て順位をつけ指導したのが池坊専好(二代)でした。

 

ここで注目すべきことは、いけばなは床の間から解放され、一個の造形美術として鑑賞されていることです。 そして身分をこえた自由な競争があり、それが衆人環視のもとで会場芸術のように展開していたことです。

いけた花が独立した作品として鑑賞される流れは、江戸時代後期まで続きます。 江戸後期の文化は、空前絶後ともいえる精緻な美の世界 ――そのようななかで、季節ちがいの花を咲かせる技術も向上し、花材も豊富になり、いけばなの花形も不思議としか思えないくらい人工的になっていきました。 枝をたわめるために細いくびきを打ちこんだり、針金を用いたりして自然にはありえない曲折させた枝ぶりや花形があらわれます。

 

このような『表現としての花』は、その後も徹底した技巧と新しい創造の美の方向へと導かれていきます。 

 

昭和初期1930年、重森美鈴(1896~1975)、勅使河原蒼風(1900~1979)、中山文甫(1899~1986)といった人びとが中心となって「新興いけばな宣言」が発表されました。 この宣言は封建的イデオロギー、床の間、型から解放して自由な創作であることを主張するものでした。 このことは、お稽古ごとのいけばなを否定し、天地人といった形式性、さらに花器や花材の否定、そして床の間といった室内装飾としてのいけばなの否定を意味しています。

 

太平洋戦争後、たいへんな盛りあがりをみせた前衛いけばなは、まさに「新興いけばな宣言」の申し子のようでした。 素材として金属の廃棄物、石や木材などを用い、場合によっては花も草木もいっさい使わない作品も登場させます。 前衛いけばなは、非植物素材による造形が主流となる造形芸術の道を歩むことになりました。

廃材の金属片を溶接したこの作品(機関車)は1951年、前衛いけばな運動の最盛期を象徴する勅使河原蒼風の傑作です。

 

しかし昭和中期の1960年代初めの頃には、造形の新しい道を開拓した前衛いけばな運動もやがて終焉をむかえます。 

 

現代いけばなでは、もう一度、素材としての花による表現の可能性をさまざまなかたちで探る方向が求められました。 そしてポスト前衛いけばな運動が展開されてからは、あらためて植物素材をみなおし、無機質では造形できない美の表現への努力が続けられています。

 

 

ここまで日本のいけばな文化についてふれてまいりました。 

あらためて日本人の花にたいする深い思いというものを感じます。 これほどまでに人びとが造形的意欲を刺激され,いけばなの様式と技巧を展開させた歴史は、他の民族文化に類例のないことですから――。